2011年3月17日木曜日

「沈黙」

諸兄、お元気か、被害はありませんでしたか、つつがなき事を願っています。

小社では、釣池の護岸が約30m崩落、養殖場のアユの約2割40万尾が斃死、ボデイブローは効きましたが、彼の地の同胞の苦難に比ぶれば軽微な事、与えられし試練と享受し、釣池に関しては昨日全て復旧させました。

またぞろ良寛の話で恐縮ですが、かつて三条大地震の時、子を亡くした母親を見かける事になった良寛和尚はどうしたと思いますか、嘆き悲しむ母親の横で良寛さんはどうしたか、一緒に泣いたそうである、母親の涙が枯れるまで一緒に泣いたそうである。悲しみのシェアリングと言うらしい。政府の首脳部よ、何もできないならそれでいい、未曾有の災害である、人知人力の及ばざるは納得してもいい、しかし何もできないのであればせめて取りつくろいは止めて、被災地に行って被災者と一緒に泣いたらどうだ、避難所に行って打ちひしがれる人々とともに泣く位の時間はさいてもいい、その方がまだ国民心情としては許容できる。有事、乱世において人の力量は計られる、自らの命と引き換えに国家を守る、彼らにはその位の決意が絶対に必要だと感じる。

しかしなぜこのような大災害が起きてしまったのか、地質学的な事ではなく運命的な疑問である。1万人余の人命が失われたとの報道もある、なぜ運命は平穏に活らす人々の命をかくも残酷に奪う必要があったのか、神はなぜ救いを与えなかったのか。まさに遠藤周作の著する「沈黙」である、今も肉親の無事を祈り続ける人々がいる、その祈りに神はいつまで沈黙を続けるのか、その祈りはすでに天に届いているはずなのに。